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解決しない問題は一つもない

 毘盧遮那をすなわち大我と名づく 我はすなわち大自在の義なり『大日経開題』 毘盧遮那を大いなる我と名づける。大我には自由自在の偉大なる力がある。 わたしたちに現在与えられていることは悉く、わたしたちの現在の魂の状態にとって、すべて教育的なものばかりなのです。 その仕事を為すことにおいて、その環境に処することにおいて、全力をつくし、全生命をかけ、全精神をつくしてそれと取組むことによってわたしたちは魂が向上するのです。 わたしたちに与えられている問題は必ず解決し得るからこそ、わたしたちに其の問題が与えられているのです。 仏はわたしたちを難問題で苦しめて、「好い気味だ」などと笑っていられることはないのです。 仏はわたしたちを苦しめるために問題を課するのではなく、わたしたちに内在する能力を呼び出すために問題を課するのです。 何か問題がおこるならば、それはあなたの魂の向上のために課せられたのです。 今こそすべての魂に宿っている融通無碍な無限の発想力をもって進むのです。この受け止め方、生き方こそ、最上の道なのです。 坂村真民 「花には散ったあとの悲しみはない。ただ一途に咲いた喜びだけが残るのだ」 「わが生よ 一輪の花のごとく 一心であれ」

わたしたちの救いの本源者は唯一つです

  我れは一切の本初なり 号して世所依と名づく 説法等比なく 本寂にして上あること無し 『即身成仏義』 あなたはさまざまな力に救われ、それを自覚していると思います。 ただし、あなたに生命を与えた(今も与えている)本源者、それのみが本当の意味であなたを救いたまうのです。 色々の名称は人間が勝手につけたのであって、名前が異ると言って争ってはなりません。 その生命の本源を仮りに「大日如来」と呼ぶことに致します。大日如来はわたしたちの求むるに先立ってなくてならぬ物を知っているのです。 既に「極楽浄土」が必要ならば既に与えておられるのです。 しかし大日如来は「はたらき」であるから、わたしたちに与えておられる「極楽浄土」も「はたらき」でつくられているので、それを現実に感ずるためには、その「はたらき」に波長を合わすようにしなければならないのです。 その波長を合わす道が祈りであり、瞑想なのです。 単純な赤ん坊の心になって、ただ「大日如来よ!」と念ずるだけで波長が合うこともあります。