ゼロではない、という慈悲
ゼロではない、という慈悲 極悪人であっても。 どんなどん底に沈んでいても。 死の間際であっても。 ――救われていることに気づく可能性は、ゼロではない。 人はしばしば、「もう手遅れだ」と言う。 取り返しがつかない、赦されない、間に合わない、と。 しかし本当に“間に合わない瞬間”があるのだろうか。 ある宗教では、救いは信仰の有無によって分かたれ、 ある時点を越えれば、永遠の断絶が確定すると説く。 そこには「ゼロ」という線が引かれている。 だが、密教のまなざしは少し違う。 世界そのものが仏のはたらきであり、 命そのものが大日如来のいのちの顕れであるならば、 誰ひとりとして、その外側に出ることはできない。 迷っているのは、仏から切り離されたからではない。 もともと光の中にいながら、 その光に背を向けているだけかもしれない。 ならば―― どれほど闇が深くても、 振り向く可能性は、消えない。 臨終の一念。 絶望の底での一息。 自分の愚かさを認める一瞬。 そこに“気づき”が起これば、 救いは未来の約束ではなく、 「すでにそうであった事実」として立ち現れる。 密教は、 「必ず全員が今すぐ救われていると自覚する」とは言わない。 しかし、 「気づく可能性が永久に閉ざされる」とも言わない。 ゼロではない。 その一点に、計り知れぬ慈悲がある。 救いとは、選別ではなく、開示である。 裁きではなく、顕現である。 極悪人であろうと、 死の間際であろうと、 宇宙のいのちの外に出ることはできない。 だからこそ―― 永久に、 救われていることに気づく可能性がある。 その可能性が消えないかぎり、 慈悲は尽きない。