■玉泉寺 今月の掲示板■「扉が閉じているのは 心まで閉じたからではない ただ今は 風を避けているだけ」


扉が閉じている姿を見ると、

私たちはつい不安になる。


「どうして開かないのだろう」

「なぜ出てこないのだろう」

「このままで大丈夫なのだろうか」


閉じられたものに対して、

人は理由を求め、

時にそこに「拒絶」や「絶望」を読み込んでしまう。


しかし本当にそうだろうか。


風の強い日に窓を閉めるのは、

弱いからではない。


中に灯っている火を守るためである。

まだ消してはならない光が、

そこにあるからこそ閉じるのだ。


自然は、守りの時間を知っている。

木は冬のあいだ葉を落とし、

大地は種を土中に隠し、

動物は巣にこもる。


それは敗北ではなく、

次の芽吹きのための準備である。


人の心もまた同じであろう。


外の声が鋭く感じられるとき、

期待や比較が重くのしかかるとき、

自分の存在が揺らぐほどの風にさらされるとき、

心は自らを守ろうとして扉を閉める。


それは「閉ざす」というより、

「抱きしめる」に近い。


内側にあるまだ弱い灯を、

両手で包むような動きなのだ。


私たちは「開いていること」を

善と考えがちである。


社交的であること、

前向きであること、

外に出て活動すること。


しかし、常に外へ向かうだけでは、

魂はすり減ってしまう。


深く息を吸うためには、

一度立ち止まらなければならない。

芽が伸びるためには、

まず根が地中に伸びなければならない。


守りの時間は、

目には見えにくい。

成果も、拍手も、評価もない。


けれどその静かな時間こそ、

人を本当に強くする。


扉の向こうで、

その人はきっと

自分だけの問いと向き合っている。


「私は何を大切にしたいのか」

「本当に守りたいものは何か」

「どんな風に、もう一度歩み出したいのか」


その問いが熟すまで、

無理に開ける必要はない。


春は、急がなくてもやってくる。


季節は命令されて巡るのではなく、

内側の成熟に応じて移ろう。


守られた灯は、

やがて自らの力で扉を押し開ける。


そのとき開かれる扉は、

以前よりも静かで、

以前よりも確かな光を帯びているだろう。


閉じているように見える人の内にも、

見えない火は灯っている。


どうかその火を信じたい。

どうか急がせず、

どうか責めず、

ただそっと風よけになれたなら。


扉は、

閉じるためにあるのではなく、

再び開く日のためにあるのだから。

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