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■玉泉寺 今月の掲示板■「人の心は その人だけの山の奥 見えないところに 涙がある」

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■玉泉寺 今月の掲示板■ 「人の心は その人だけの山の奥 見えないところに 涙がある」 人と向き合っていると、 どうしても分からない心に出会うことがあります。 怒っているように見える人。 不機嫌そうな人。 親切にしても、あまり喜んでくれない人。 そういう姿に触れると、 「この人は何を思って生きているのだろう」 「何が幸せなのだろう」 と、心が揺れることがあります。 けれども、人の心というものは、 山の奥のようなものです。 遠くから見ると、ただ暗く静かに見えます。 けれど山の中には、 小さな沢が流れ、 誰にも知られない花が咲き、 深い土の下には水が眠っています。 人もまた同じです。 不器用で、うまく笑えない人。 感謝を言葉にできない人。 優しさを返すことが苦手な人。 その人の奥には、 その人にしか分からない歴史があり、 誰にも見せなかった涙があるのかもしれません。 怖かった父親にも、 感謝を言えない老人にも、 きっとその人だけの山奥があるのでしょう。 そして、 その山奥を無理に覗くことは 誰にもできません。 ただ、遠くから静かに手を合わせることはできます。 理解できない心があるということは、 私たちの心が冷たいからではありません。 むしろ、 「分かりたい」と思う優しさがあるからこそ 苦しくなるのです。 だからこそ、 そんなときは思い出してください。 人の心には、 見えないところに それぞれの涙があるということを。 そして今日も、 分からないままでもいいから、 少しだけ優しく生きてみましょう。 それだけで、 この世界はほんの少し やわらかくなるのです。

感情は仏のひかりである ― 喜怒哀楽をめぐる小考

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感情は仏のひかりである ― 喜怒哀楽をめぐる小考 私たちはしばしば、「悟りとは感情をなくすことだ」と思い込みます。怒らず、悲しまず、喜びすら手放し、ただ静かに揺るがぬ境地に至ること――それが理想であるかのように語られることがあります。 けれども、心の奥底ではどこか腑に落ちないものが残ります。もし喜びも悲しみもないならば、その世界はあまりにも無機質ではないか。人を思って胸が熱くなることも、別れに涙することもない境地が、ほんとうに「完成された姿」なのだろうか、と。 むしろ私たちは、直感的にこう感じているのではないでしょうか。悟りとは、感情を失うことではなく、より大きなかたちへとひらかれることではないかと。 この直感は、決して誤りではありません。真言密教の立場に立つならば、それは「如実知自心(ありのままに自らの心を知る)」という、悟りの本質に極めて近い感受といえます。 真言密教において、世界は大日如来のはたらきそのものと捉えられます。それは静止した無機的な原理ではなく、常に躍動し、創造的発展を続ける「宇宙の大生命」の全体です。 私たちの心もまた、その大きな生命が個体に発現した「分身」です。ゆえに、私たちの内に湧き上がる喜びも、怒りも、悲しみも、楽しさも、もともとは「法身大日如来」の三密活動(身・言葉・心の営み)が、私たちの心を通じて現れたものにほかなりません。 ただし、私たちの感情はしばしば歪みます。「自分」という中心にとらわれる「我執(がしゅう)」が生じることで、感情は本来の自由を失い、閉じたものになってしまうのです。 怒りは誰かを傷つける刃となり、 悲しみは自らを閉ざす殻となり、 喜びは執着となって、かえって苦しみの種となる。 ここにおいて問題なのは、感情そのものではなく、そのエネルギーが「自分」という狭い枠内に閉じ込められ、本来の輝きを失っていることなのです。 では、悟りとは何か。 それは、感情を消し去ることではありません。感情を抑え込み、平板にすることでもありません。むしろ、感情が「本不生(ほんぷしょう)」という万物の根源的な自由を取り戻し、限りなく開かれたはたらきへと転じることです。 〝怒り〟は、自己のプライドを守るためのものではなく、真理(根源的自由)を遮る迷いを打ち砕く、不動明王のような「金剛の智慧」のはたらきへと変わります。 〝悲しみ〟は、個人的な嘆きを超...