物の奥に仏を見る



密教では、物質を単なる物体とはとらえません。

この世界をかたちづくるすべてのもの――石、草木、水、炎、建物、食事、音――そのひとつひとつが、仏の意志のあらわれであると考えます。

それらはすべて、衆生を悟りへと導かんとする仏のはたらきです。


たとえば、仏は「かたち」――言葉や物、自然現象や儀礼――としてこの世界に顕れます。

色や音や香り、感触や味わいといった五感にふれるものすべてが、仏からの呼びかけであり、智慧のひとしずくです。

つまり、世界そのものが曼荼羅であり、目の前にある現象がそのまま教えなのです。


空海は『即身義』において、次のように述べています。


諸の顕教の中には四大等を以て非情となす。

密教はすなわちこれを説いて如来の三摩耶身となす。

四大等は心大を離れず。


一般の仏教では、地・水・火・風といった物質的な存在を「情(こころ)なきもの」とみなします。

しかし密教においては、それらこそが如来の「三摩耶身(さんまやしん)」――仏の誓いが姿をとって現れたかたち――であると説きます。

空海は、「四大等は心大を離れず」と言い、物質と心を切り離して考えることを否定しました。


山や川、風や炎、私たちの身体さえも、仏の大いなる心のはたらきであり、どれひとつとして「非情(こころなきもの)」ではない。

つまり、物と心、形と仏性は一体であり、世界全体が如来の顕現であるというのです。


この理解に立てば、仏像や法具、供物や行事を「ただのモノ」として扱うことはできません。

それらはみな仏の現れであり、尊ぶべきものとして清らかに扱います。

それは迷信でも偶像崇拝でもなく、世界を通して仏と一体となる実践なのです。


日常の中でも同じです。

茶碗に注がれた一杯の水も、掃除のほうきも、子どもが落とした小石でさえ、私たちの目覚めを待ち続けている仏のすがたです。

ものを丁寧に扱うということは、仏の声を聞こうとする姿勢にほかなりません。


忙しいときこそ、身のまわりの「物」に静かに向き合ってみる。

その奥にある仏の気配に気づいたとき、日常がそのまま道場となります。


物は物ではありません。

この世界を通して仏が語りかけているとすれば、私たちの生はすでに教えの中にあります。

仏のことばは、いまこの手の中にも、足もとにも届いています。

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