魂に語りかけるということ— 言葉を超え、仏性にふれる対話 —
私たちが人と向き合い、言葉を交わすとき、実際に語っている相手とは誰なのでしょうか。 顔を見て話し、声を聞き、言葉を受け取っているようでいて、ほんとうはもっと深いものと触れ合おうとしているのではないでしょうか。 その深みにあるもの。 それが「魂」であり、仏教の言葉でいえば「仏性」であります。 弘法大師空海は『即身成仏義』において、衆生はみな本より仏であり、煩悩の奥にこそ如来の智慧と慈悲が遍満していると説かれました。 つまり、私たちは誰しも、いのちの根底に如来の光を宿して生きているのです。 会話とは、そうした如来の光と光が、ふとした言葉や沈黙のあいだを通して触れ合う営みです。 言葉は器にすぎません。 そこに込められた願いや祈り、思いやり、懺悔や誓い——それこそが、魂の真の響きです。 密教においては、言葉(身口意)のすべてが修行であり、仏に通じる道であります。 語るとは、ただ情報を伝えることではなく、自身の内なる仏性を通して、相手の仏性に語りかける行為にほかなりません。 それゆえ、何気ない日常の会話であっても、そこには修法と同じほどの深い意味が宿るのです。 ある人が、弱い声で「大丈夫」と言ったとき、私たちはその背後にある不安や祈りを感じ取ります。 子どもが沈黙のまま立ち尽くす姿に、言葉を超えた心の叫びを読み取ることもあります。 それらは、魂の声であり、仏性からの発露です。 私たちが本当に聴いているのは、言葉の中の「意味」ではなく、言葉をつうじて響いてくる「存在」なのです。 だからこそ、私たちは人と語るとき、魂に語りかけねばなりません。 如来のまなざしをもって、相手の中にある光に向かって、こちらの光を差し出すのです。 弘法大師は『声字実相義』において、「声」そのものの中に宇宙の真理が響いていると説かれました。 話すこと、聴くこと、祈ること、そのすべてが密厳国土の荘厳にほかならないのです。 魂に語りかけるとは、仏性に向かって祈ることです。 そして、相手のうちに仏を見、自らの言葉を供養のごとく差し出すことです。 言葉は尽きても、光は尽きません。 この世の出会いはすべて、仏と仏との交わりであると、私は信じております。