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八隆講 髙尾山薬王院参拝

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今年も、青葉しげる「青髙尾」にて参拝をいたしました。 正式には「髙尾山薬王院有喜寺」と称し、真言宗智山派の大本山にあたります。 古来より山岳信仰の拠点として、多くの僧侶・修験者が修行を重ねてきた聖地であり、その霊験はまことにあらたかです。 尊きご縁をいただき、また来年も皆さまとともに同行参拝できますことを願っております。

施餓鬼法会

あらゆるものには魂が宿っています。 私たち一人ひとりにも、確かに魂が息づいています。 私たちはその無数の魂の力に生かされ、また互いに生かし合っているのです。 その尊き事実を、決して忘れてはなりません。 この法会においては、各家の先祖は申すまでもなく、家の垣根を越えてすべての御先祖、さらには有縁無縁・森羅万象の御霊に至るまで、わが魂よりの祈りを真心を込めてお捧げいたしましょう。

合 掌

祈りとは、現実から逃避するための方便にあらず。 祈りこそは、真実の世界へと到達するための、ほとんど唯一にして至高の道である。

新時代を迎えて

    新元号「令和」となり、わたしたちは新たなる時代の門出に立っています。  「来たるべき世を、より良き世界へ」との願いは、誰しもの胸に芽生えるものでしょう。  世界においては「SDGs(持続可能な開発目標)」に象徴される新しき社会構想が掲げられ、あらゆる分野を超えて未来を築かんとする試みが進められています。  しかし、果たして人間の心は、その新しき時代に耐えうるほどの力を備えているでしょうか。  古来より絶えず問われてきたにもかかわらず、世の華やぎに覆われ、しばし忘れ去られた領域があります。  社会制度の整備ばかりに傾き、やがて行き詰まりを見た時に、なお浮かび上がってくる聖なる秘境があります。  それこそが、「自心の深層」であります。  内にして無限、深淵にして広大、己が身ながら大宇宙に通ずる不可思議の聖域。  そこには限りなき宝蔵が密かに息づき、いまだ扉を開かんことを待ち続けています。  その扉の鍵は、すでに汝の掌中に託されているのです。  問われるべきは、外界の繁栄ではなく、わたしたち一人ひとりの心の成熟であります。  真に持続可能なる社会とは、人の心がその根幹において確かに支え得てこそ築かれるものです。  新しき時代の構築をめざすにあたり、わたしたちは忘れてはなりません。  自心を省み、その深みに沈潜する修行なくして、未来に真の基盤は成り立たぬということを。  いついかなる時も、自らの心の声に耳を澄まそう。  心が外界に追いつき、さらに先導するまで。

参列修行のすすめ

 仏法は限りなく尊く、深淵にして広大です。 しかし、その尊い教えを、いかに日常において実践すればよいのか、迷う方も多いことでしょう。 経典を読み、思想を学んでも、それだけではなお自らの身心に染みわたらぬ。心掛けてはいても、どこか小さくまとまってしまう。そのような不安を覚える方にこそ、すすめたい道があります。 それが「参列修行」です。 参列修行とは、ただ寺の儀礼に身を添えることです。 日常の塵労からひととき離れ、仏の御前に座し、祈りの法要に立ち会う。これ自体が尊き修行となります。山林に籠もる必要もなく、万巻の経を誦することもなく、ただ、仏前にひたすら参列するのです。 ただし、それは形ばかりの祈りではありません。 過去の祈りが「他者まかせ」であったならば、それは真の祈りとは申せません。堂内に身を置きつつ、なお己の内なる仏性に耳を澄まし、ただ自己の祈りとして参列する。ここにこそ真実の修行があるのです。 「それならば自宅でもできるのではないか」と思うかもしれません。 けれども、日々祈りが凝らされ続けている道場における参列は、格段に異なるのです。絶え間なく積み重ねられた祈りの力に触れることで、個人の力を超えた大いなる功徳をいただくことができます。 玉泉寺では、 毎朝五時 毎月二十八日午前九時 本尊不動明王の宝前において、護摩修行を厳修しております。 護摩の聖火は、われらが心に積もる日々の垢を焼き清め、宿縁の業をも昇華いたします。 ご参列はすべて無料にて承っております。お布施の心配はございません。勧誘もいたしません。求めがあれば法話をいたしますが、まずはただ、御宝前に身を添えて心の浄めに専念してください。出入りは自由であり、外からの参拝もまた尊き修行となります。 どうぞ一度ご参列ください。 不動明王の御前において、己が仏性と向き合うひとときを持たれることを心よりおすすめ申し上げます。