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■玉泉寺 今月の掲示板■ 「曲がりくねった木も、深く大地をつかんでいる。まっすぐでなくても、しっかりと生きている。」

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今月の掲示板より 曲がりくねった木も、深く大地をつかんでいる。 まっすぐでなくても、しっかりと生きている。 山道を歩けば、風雪に耐え、岩を避けながらも、懸命に天を目指す木々の姿に出会います。 まっすぐにすくすくと育った木は、たしかに美しく、見る者の心を惹きつけます。 しかし、厳しい環境の中で曲がり、くねりながらも、倒れぬようにと大地に深く根を張った木の姿には、また違う種類の美しさが宿っています。 ごつごつとした幹が崖の岩肌に食い込むように張り付き、ねじれた枝にさえ、驚くほど可憐な花を咲かせる。 その姿は、まさしく力強い生命の輝きそのものです。 この「曲がりくねった木の生き方」は、変化が激しく、先行きの見えにくい現代を生きる私たちにとって、極めて重要な智慧を授けてくれるのです。 私たちは、社会が良しとする「まっすぐな道」を歩むことを理想としながらも、実際には思い通りにならない「曲がりくねった道」を歩むことになります。 その間にある葛藤こそが、多くの悩みの源泉となっているのではないでしょうか。 まっすぐな道という幻想 現代社会は、とかく「まっすぐで効率的な人生」を理想としがちです。 良い学校を出て、良い会社に入り、安定した地位を築く。 そうした画一的な成功のイメージは、まるで一本の揺るぎない物差しのように、私たちの人生を測ろうとします。 「大学全入時代」といわれる昨今、経歴に箔をつけるためだけに学び、よい暮らしをして一時の優越感に浸るために、自分を殺してあくせく働く。 その物差しから外れることを恐れ、多くの人々が息苦しさを感じているのではないでしょうか。 しかし、果たしてその価値観は、本当に私たちの心を豊かにしてくれるものなのでしょうか。 弘法大師空海は、その著作『性霊集』のなかで、次のように嘆じておられます。 古の人は道の為に道を求む 今の人は名利の為に求む 昔の人は、その道を究めようとして学んだが、今の人は、地位や名声を得るために学ぼうとする。 かつて、学びや働くことの目的は、自分自身の内面を探求し、道を究めることにありました。 しかし現代では、それが他者からの評価や地位、名声といった外面的なものを得るための手段となりがちです。 見た目の成功だけを追い求める生き方は、たとえそれを手に入れたとしても、心のどこかに空虚さを残すことになりかねません。 多くの人が挫折や失敗...

物の奥に仏を見る

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密教では、物質を単なる物体とはとらえません。 この世界をかたちづくるすべてのもの――石、草木、水、炎、建物、食事、音――そのひとつひとつが、仏の意志のあらわれであると考えます。 それらはすべて、衆生を悟りへと導かんとする仏のはたらきです。 たとえば、仏は「かたち」――言葉や物、自然現象や儀礼――としてこの世界に顕れます。 色や音や香り、感触や味わいといった五感にふれるものすべてが、仏からの呼びかけであり、智慧のひとしずくです。 つまり、世界そのものが曼荼羅であり、目の前にある現象がそのまま教えなのです。 空海は『即身義』において、次のように述べています。 諸の顕教の中には四大等を以て非情となす。 密教はすなわちこれを説いて如来の三摩耶身となす。 四大等は心大を離れず。 一般の仏教では、地・水・火・風といった物質的な存在を「情(こころ)なきもの」とみなします。 しかし密教においては、それらこそが如来の「三摩耶身(さんまやしん)」――仏の誓いが姿をとって現れたかたち――であると説きます。 空海は、「四大等は心大を離れず」と言い、物質と心を切り離して考えることを否定しました。 山や川、風や炎、私たちの身体さえも、仏の大いなる心のはたらきであり、どれひとつとして「非情(こころなきもの)」ではない。 つまり、物と心、形と仏性は一体であり、世界全体が如来の顕現であるというのです。 この理解に立てば、仏像や法具、供物や行事を「ただのモノ」として扱うことはできません。 それらはみな仏の現れであり、尊ぶべきものとして清らかに扱います。 それは迷信でも偶像崇拝でもなく、世界を通して仏と一体となる実践なのです。 日常の中でも同じです。 茶碗に注がれた一杯の水も、掃除のほうきも、子どもが落とした小石でさえ、私たちの目覚めを待ち続けている仏のすがたです。 ものを丁寧に扱うということは、仏の声を聞こうとする姿勢にほかなりません。 忙しいときこそ、身のまわりの「物」に静かに向き合ってみる。 その奥にある仏の気配に気づいたとき、日常がそのまま道場となります。 物は物ではありません。 この世界を通して仏が語りかけているとすれば、私たちの生はすでに教えの中にあります。 仏のことばは、いまこの手の中にも、足もとにも届いています。

変身する人間と月の記憶

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月影に 己を忘れ 己を得る 風が変わる 人もまた 知らぬ声を持つ 満ちる時 欠ける時 心もまた かたちを変える 人間という生き物は、どこか不可解です。昨日までの姿からは想像できないほど、ある日突然、突拍子もない行動をとることがあります。まるで眠っていた何かが目を覚まし、心の奥底から別の力が立ち現れてくるかのようです。 この「変身」は、人類が古くから物語や伝説で語り継いできたテーマでもあります。月の満ち欠けに合わせて姿を変える狼男、季節の変わり目に異界と交わる人々――自然のリズムと人間の深層心理は、どこかで響き合っています。 その響きの中に、「人間」という種がもつ特有のふるまい――超越やトランス・パーソナルな瞬間――があるのかもしれません。 私たちは、ただ「一定の存在」として生きているのではなく、変わり続ける存在なのです。むしろ「変わらない」ことの方が不自然かもしれません。 変身することは、不安でもあり、同時に可能性でもあります。闇の夜に月が昇るように、あるいは枯葉の枝に芽が吹き出るように、私たちもまた、いつどこで新しい自分を現すか分からない。 不可解さの中にこそ、人間の尊さと面白さが息づいているのでしょう。

霊的人間への旅と魂の記憶

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人には、日常の延長線上では説明できない感覚が訪れることがあります。 それはただの思考ではなく、もっと深いところからあらわれる直観のような力です。 この直観力は、自然に生きる人間の次元ではなく、もうひとつ別の位相――「霊的人間」としての次元において働きます。普段の私たちが眠らせている何かが、ふとしたきっかけで立ち上がる。 そのきっかけは、修法であったり、境内に吹く風や光であったり、あるいは花鳥風月が心に映る「景気」として訪れたりします。そこでは想像力や直観力が生き生きと動き出し、世界の新しい顔を見せてくれるのです。直観や想像力とは、空想ではなく、霊性を帯びた感覚なのです。 人間という存在は、どうやら最初から「変身」や「越境」といった可能性を孕んでいるようです。 隠されていたものがある日、ふいに現れる――それは人格の裏面が露呈する瞬間であり、自己の深みが姿を見せる出来事でもあります。 人はしばしば、常識や社会的秩序の枠をはみ出し、次元を飛び越えるような感覚を味わいます。闇の中に見えてくる光や、言葉にできない象徴作用を感じ取る時、それはすでに「霊的人間」としての回路が開かれているのかもしれません。 回峰行のごとく歩き続けること、祈りを大地に捧げて地球の気息と響き合うこと――それはただの行為ではなく、人間に仕組まれた超越の衝動の表れです。 人は古来より、芸能や祭祀を通して「鎮魂」の作法を生み出してきました。能の舞台に立ち現れる亡霊の姿もまた、怨みや悲しみを語りつつ、それを昇華してゆくための「タマフリ」の営みでした。 聖地や霊場は単なる地理的辺境ではなく、多くの縁や業が集まる「萃点」となります。そこに人びとは詣で、願いを託し、場所そのものが記憶と感情を蓄えてゆきます。まるで世界の果てこそが、逆説的に世界の中心であるかのように。 そして「諸国一見の僧」のように、場と人とを訪ね、声を聴き、言葉を受け取ること――それ自体が魂の鎮まりと活力をもたらす営みなのです。 人間の深奥には、地霊の呼び声を受け取る感覚があります。 魂のアルケオロジー――つまり、心の奥に埋もれた記憶や情念を掘り起こし、新たな姿へと変えてゆく営み。 その道を歩むとき、人は「自然的人間」を超えて、「霊的人間」としての自分を生きはじめます。 それは辺境にあって世界の中心に触れるような、逆説と祝福に満ちた旅なのです。 祈...

“何となく”が支える社会と祈り~気配の倫理と祈りの力~

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人と人とのあいだに流れる“何となく”のぬくもり。 その見えない力が、社会をやさしく包みながら、しなやかで力強い息づかいを与えています。 手を合わせる祈りやご先祖さまへの供養も、同じように静かに心と心を結び、 人と自然、そして宇宙までも響き合わせる働きをしているのです。 静かな力が社会をつくる 私たちの日々の暮らしの中には、声高に語られることはなくても、確かに社会を形づくる力が働いています。 たとえば、朝露に濡れた地蔵の前の一輪の花。 手を合わせたあとに残る線香の香。 誰に見せるためでもなく捧げられたその気配には、いのちの営みを結ぶ静かな祈りが宿っています。 こうした小さな営みは、社会の底に静かに流れる見えない文化装置であり、 人と自然、そして世界そのものを結び合わせる目に見えぬ縁の網の目でもあります。 そこでは、いのちといのちが響き合う場に身を委ね、その気配を感じ取る力――「気配の倫理」が育まれています。 目に見えぬつながりを察し、そっと応える心が、世界をやさしく、そして逞しく息づかせているのです。 人に見られていなくてもゴミを拾う、相手の言葉にならない思いを察して動く。 そうした“何となく”の行いは、社会の空気をやわらかく整えると同時に、生命の力を吹き込むものです。 供養という人間の姿勢 供養もまた、この「静かな力」と深く響き合っています。 亡き人を思い、手を合わせるとき、私たちは過去の記憶をたどるだけではありません。 その人を想う自分の心――慈しみや感謝、悲しみや願い――そのすべてを見つめ直す時間でもあります。 つまり供養とは、亡き人の人生を自分の中に確かめると同時に、 「人を想う心」そのものを育てる行為なのです。 誰かの冥福を祈るという姿勢は、他者への思いやりを忘れない社会の根底を支える力になります。 供養する人の姿そのものが、社会に「人としての倫理」を伝え、静かに世界をあたためているのです。 願いに生きるという祈り 祈願もまた、“何となく”の延長にあります。 神仏に願うことは、単なるお願いではなく、「願いに生きる」という姿勢を形にすることです。 一心に祈る姿は、外から見れば静かですが、内には全身全霊の生命の力が込められています。 祈る人は、未来を信じるというよりも、いまこの瞬間に自己をまるごと投じ、 願いに生きる姿をあらわしています。 その没入の姿勢こそが、...

読経のすすめ『勤行聖典』:日々の実践と理解を深めるために

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はじめに:実践と理解、信仰の両輪 合掌 皆さまは、日々『勤行聖典』を読誦し、仏さまとのご縁を大切にされていることと存じます。この解説が、皆さまの日々の勤行を、より一層深く、意義深いものとするための一助となることを願っております。 仏道修行において、実践と理解は、あたかも「 車の両輪、鳥の両翼 」のごとく、どちらが欠けても前に進むことはできません。ただお経を唱える「実践」だけでなく、その言葉の背後にある仏さまの広大なる智慧と慈悲の心に触れる「理解」が加わることで、私たちの信仰は確かなものとなります。日々の勤行は、単なる習慣ではなく、自らの心を磨き、仏さまの世界に触れるための尊い時間なのです。 この解説が、皆さまにとって、その尊い旅路のよき伴走者となることを心より念じております。これから一つひとつのお経の言葉を紐解きながら、共に仏さまの教えの深淵へと歩みを進めてまいりましょう。皆さまの心を温かく照らし、仏道へと力強く導く光となることを願ってやみません。 第一部:勤行の心構え — 仏さまの世界と一体となる道 お経を読むこと、すなわち勤行(読経)とは、単なる儀式ではございません。それは、 仏さまの世界と一体となり、最高の幸福と功徳を得るための、この上なく尊い修行 であります。この身このままで、自分が宇宙そのものと一体化する体験こそが、死の恐怖さえも超えた究極の境地であり、あらゆる幸福の源泉なのです。亡き人は、すでに仏さまの世界に溶け込んでおられます。私たちが読経を通じてその世界と一体になろうとすることは、故人への最高の供養ともなるのです。 この第一部では、「なぜお経を読むのか」、そして「理解と実践の調和」という二つの章を通じて、勤行に臨むべき基本的な心構えを、共に紐解いてまいりたいと存じます。 第1章:なぜお経を読むのか 読経の究極の目的、それは「仏さまの世界と一体となること」に尽きます。これは、あらゆる悩みや苦しみ、そして死の恐怖をも乗り越えた絶対的な安らぎの境地です。そして、その世界に自らの心を重ね合わせることこそが、亡き大切な方々への最上の供養となるのです。仏事の本質は、すべてこの一点に通じています。 この境地に至るために、弘法大師空海さまは、ただお経を読むだけでなく「観想」の重要性を説かれました。 「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く」 (真言はまことに不思議...