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大日如来の結晶体としての人間

大日如来は永遠不滅であり、遍在すなわち、遍く到る処に充ち満ちていられるのです。 わたしたちの中にも外にも、上にも下にも、在(いま)さざるところなき存在です。 しかし「我れ如来の子なり」と念ずることは、その遍く在るところの如来の力が表現して出るところの中心的凝集点を造ることになるのです。 「如来の子」とは「如来の凝り固り」であり、人間が如来の具体的結晶であるという意味です。 如来は到る処に充ち満ちていても、その具体的に表現されることなしには、単なる「潜在的な力」に過ぎないのです。 その潜在的な力を現実的な力に変化するには、真言(ことば)の力を必要とするのであります。 如来の心動き出でて真言(ことば)となれば一切の現象展開して万物が成就するのです。

加持感応―霊力を増大するには

霊力を増大する方法(加持感応)には、古来から、断食、水行、色々の苦行等、肉体をいじめる方法があるけれども、最も大切なものは、「神仏との一体感」を増すことなのです。 断食、水行その他の苦行によって霊力を増大するのは、人間は肉体的面と、霊的面とが普通の場合においてはバランスを得ていて、調和ある状態にあるけれども、断食等の苦行によって肉体を衰弱せしめると、霊的バランスの方が強くなって霊感力が殖えてくることがあるのです。 瀕死の状態にあるときに霊感が発達して霊姿を見ることがあったりするのは、そのためであります。 しかしこれは霊力が積極的に殖えたのではなくて、霊力を制えていた肉体力が減ったからです。 積極的に霊力を増加するには五相成身観なり阿字観等により「我れ大日如来の子なり」の自覚を増大しなければならないのです。

心をどこに向けるか

 心に起こす念は、やがて「業(ごう)」となって現象をつくり出します。 特に強い感情を伴うとき、その念はいっそう深く潜在意識に刻まれ、未来の果報を形づくるものです。 もしその念が「瞋恚(しんに)」――すなわち怒りや憎しみであるならば、その毒は相手を害する前に、まず自らの身心を蝕み、苦を生じさせます。 まさに「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」――すべては心のはたらきに依るのです。 だからこそ私たちは、心が一点に集中する「三昧(さんまい)」の機を、善き方向に用いねばなりません。 たとえば鏡に向かうとき、心が澄みわたるのを感じ、「南無仏、我は幸いなり」と念ずるならば、その善き想念は光となって自らを護り、日々の歩みに力を与えるでしょう。

そのままに純に生きよ

 仏は常に働きかけてくれています。 仏には勤務時間もなければ、休暇もありません。 わたしたちが勤務中に時計を見るようになったとき、わたしたちの生活は少し仏から離れて来た証拠です。 梅の樹は梅の花を咲かすために、一分間も休みなく生命の営みを続けているのであり、桜の生命は桜の花を咲かせるために、一秒間も休みなく生命の営みをつづけているのです。 そしてその生命の営みは決して金銭のためでもなく、何らかの報酬を期待するのでもなく、どんな人里離れた山奥の岩の蔭にでも咲いているのです。 そしてその咲くことが仏のみ心であり、天分であるがゆえにそれが喜びであるのです。 ただ、そのまま営むということ、それがありのままの生き方であり、真言密教の真理そのままの生き方であり、純粋の生き方です。そこには一切の悩みなく、病いなく、憂いなく、そのままであり、それが本当のあなたなのです。

自分の運命を自分で変化しましょう

心は動力であって、万物は間接または直接に御霊によって動かされているのです。 物質の運動は、過去に宇宙大生命の叡智または諸霊や人間の心によって動かされたる惰力で動いているに過ぎないのです。 その惰力によって動かされている部分が吾々の運命、又は「業の催し」であります。 この運命または「業の催し」に左右せられないようにするには、これに「心の動力」を新たなる方向に加えて、その運動慣性の方向を一変するようにすればよいのです。 心の持ち方で御霊が変化し、自分の運命が変化するという原理が分りましても、実際に心の持ち方を変化しなければ、飯の炊き方を習いながら飯も炊かず、飯も食わずして腹が減っているようなものであります。 先ず真言密教の説く、祈願と供養のある生き方を実践することです。

全自我を仏に与えよ

仏を自分の生活の指導者として、自分の一挙手一投足を神の無限の力、無限の生命、無限の智慧に協力して頂いて生活するとき、あなたの生活がどんなに素晴しい輝く尊いものとなることでしょうか。 このような生活を送るには一文の金銭も不必要でありますが、それは何のお布施も払う必要がないという意味ではありません。 それは「全自我を仏にまで委ねる」という最大のお布施を支払わねばならないのです。 我がなくなることです。 そうすることによってのみ仏は無限の智慧と愛と生命と豊かなる供給とをわたしたちに流れ入らしめることが出来るのです。 わたしたちは先ずカラッポのコップになることが必要なのであります。 わたしたちが「我」のコップを空っぽにした時にのみ仏の無限の宝が流れ入るのでありま

大日如来とともに生活して下さい

あなたが「大日如来の子」として自覚を得ると、仏の世界からの無限の供給が自由自在にあなたに対して流れ込むようになるのです。 あなたは「大日如来の子」であることをみずから承認し、如来はあなたが自分の分身であることを認知して下さることになるのです。 今後はあなたの人生のあらゆる場面に於て、如来が資本家となり、如来が相談相手となり、如来がすべての計画を授けて下さるのです。 毎朝、眼が覚めた瞬間、寝床のままでよろしいから次のように瞑想してみてください。 あらゆる方面において素晴しい結果が得られます。 「わが命はわが命ならず天地を貫きて生くる大日如来の命(繰返し念ずる)この命は私の命ではございません。御仏の命です。貴方が御計画下さいました通りに此の命をお使い下さいませ。大日如来の智慧われに流れ入りて私の生活のあらゆる場面を導きたまう。」 これを二十回ほど心に唱えてから起きるのです。

みまもり観音

寺に参る人びとを「ようこそ」と迎え 家路へ向かう背中を「幸あれ」と見送る 悩み哀しみを抱く者には寄り添いの御手を差し伸べ 苦を抜き楽を与う 家をみまもり 故郷をみまもる 過去 現在 未来へと悠久の時を行き来し すがたかたちを変化して いつもあなたをみまもる 南無大聖観世音菩薩

「大日如来の子」の自覚を以て悠々闊歩せよ

 何故、あなたはそんなに小人のように小さく屈み込んでいるのですか。 何故仔犬のように小さく這いつくばっているのですか。 あなたは大日如来の子ではありませんか。 何故もっと胸を反らして堂々と人生を闊歩しないのですか。 何故そんなに不健康で我慢しているのですか。 何故そんなに不景気な顔をしているのですか。 それは貴方の精神が大日如来の子だと云う事を自覚しないからなのです。 凡ての不幸と弱小と不調和と不健全とを吹き飛ばすところの最大の妙薬は「人間は大日如来の子」だと云う自覚なのです。 この自覚のためには一文も費用はいらないのです。 何の儀式も要らないのです。 改宗することも要らないのです。 ただ真理を知れば好いのです。 「真理は汝を自由ならしめん」であります。