大日如来の結晶体としての人間

大日如来は永遠不滅であり、遍在すなわち、遍く到る処に充ち満ちていられるのです。

わたしたちの中にも外にも、上にも下にも、在(いま)さざるところなき存在です。

しかし「我れ如来の子なり」と念ずることは、その遍く在るところの如来の力が表現して出るところの中心的凝集点を造ることになるのです。

「如来の子」とは「如来の凝り固り」であり、人間が如来の具体的結晶であるという意味です。

如来は到る処に充ち満ちていても、その具体的に表現されることなしには、単なる「潜在的な力」に過ぎないのです。

その潜在的な力を現実的な力に変化するには、真言(ことば)の力を必要とするのであります。

如来の心動き出でて真言(ことば)となれば一切の現象展開して万物が成就するのです。

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