■玉泉寺 今月の掲示板■「鬱蒼繁茂(うっそうはんも)」


■玉泉寺 今月の掲示板■「鬱蒼繁茂(うっそうはんも)」

整えすぎた心は、やがて渇く。
少し乱れ、少しこぼれ、なお生きよ。
鬱蒼たる中にこそ、いのちの泉あり。


整えられた街は、たしかに便利です。

見通しはよく、足元は舗装され、虫も少なく、衣服に草の実が付くこともありません。落葉に悩まされることも、雨上がりのぬかるみに靴を取られることもない。人が暮らしやすいよう、都市空間は多くの不便を取り除いてきました。


それは大きな知恵であり、努力の結晶でもあります。けれども、不便を遠ざけるほどに、私たちは知らず知らずのうちに、別の何かまで遠ざけてはいないでしょうか。


木々が鬱蒼と茂る場所に入ると、まず人は少し戸惑います。枝葉が重なり、光はやわらぎ、地面には落葉が積もり、風の通り道も街中とは違う。そこには人間の都合だけでは測れない秩序があります。


しかし、しばらく身を置いていると、不思議な変化が起こります。

張りつめていた心がほどけ、過度に整えようとしていた感覚がゆるみ、自分もまた自然の一部であったことを思い出すのです。


現代人は、清潔さ、効率、正確さを求められる場面の中で生きています。常に整え、遅れず、乱さず、失敗なく過ごすことが求められる。そうした緊張は、知らぬ間に心身を乾かしてゆきます。


鬱蒼とした緑には、その乾きを潤す力があります。

葉のざわめき、土の匂い、木漏れ日の揺らぎ、名もなき虫の気配。そこには、人工物にはない膨大な情報の往来があります。言葉にならぬやりとりが、静かに私たちへ届いています。


人は、説明できるものだけで生きているのではありません。

理屈にならない安心、理由なき解放感、ただ包まれているという感覚によって、深く支えられていることがあります。


木々の繁りは、私たちに語りかけます。

少しくらい乱れていてもよい。

すべてを管理できなくてもよい。

こぼれ落ちるものがあっても、なお生命はめぐるのだと。


整った場所に疲れたとき、少し茂った場所へ行ってみる。

そこには、忘れていた呼吸が戻ってくるかもしれません。


人の心もまた、きれいに刈り込みすぎず、多少は鬱蒼としていてよいのです。

その奥にこそ、瑞々しい生命の泉があるのですから。

このブログの人気の投稿

読経のすすめ『勤行聖典』:日々の実践と理解を深めるために

■玉泉寺 今月の掲示板■ 「福縁増長」

■玉泉寺 今月の掲示板■ 「曲がりくねった木も、深く大地をつかんでいる。まっすぐでなくても、しっかりと生きている。」