老いは、衰えではない


老いは、衰えではない

「歳をとると、迷惑ばかりかけてしまってね」

高齢の方から、よく聞く言葉です。

身体は弱り、物忘れも増え、できないことが増えていく。現代社会は、どうしても「生産性」で人の価値を測ります。どれだけ働けるか、どれだけ稼げるか、どれだけ速く動けるか。その物差しに照らせば、老いはまるで「価値を失っていくこと」のように感じられてしまいます。

そして、その感覚は、決して気のせいではありません。昨日までできたことができなくなる悲しさ。痛みや不自由を抱えて過ごす日々の重さ。誰にも会わない夜の寂しさ。介護をする側にも、される側にも、言葉にならない苦しみがあります。老いには、確かに失われていくものがあり、その悲しみは、軽々しく「前向きに」と言い換えられるものではありません。

そのうえで、私は申し上げたいのです。人間の価値は、能力だけで決まるものではありません。むしろ人は、老いの中でこそ、人間として最も大切なものを深めていきます。

若い頃は、前へ前へと進むことに必死です。競争し、獲得し、証明しようとする。けれど老いは、人を「奪い合い」から降ろします。そのかわりに、人の痛みを理解する力を与えてくれます。急がない心、許す力、待つ力、黙って寄り添う力。それは、若さにはなかなか持てない智慧です。

仏教は、老いを敗北とは見ません。老いや病を避けられない苦として正面から見つめたうえで、執着を削ぎ落とし、人間を本来の姿へと戻していく大切な道程と見ます。

財産も、肩書きも、体力も、いつかは失われます。しかし、最後まで残るものがあります。それは、どのように生きたかという「心の質」です。優しく生きた人には優しさが残り、誠実に生きた人には誠実さが残る。誰かを支え続けた人には、その温もりが残ります。

では、人としての時間を終えたあと、その質はどこへ行くのでしょうか。

仏教の古い言葉に、「心は物事に先立ち、心が物事を導く。清らかな心で語り、行うなら、影が身に添うように、安楽がその人に従う」とあります(『法句経』)。心の質は、その人の歩みを決めるだけでなく、その人についてまわるものだ、というのです。

弘法大師は『秘蔵宝鑰』に、「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」と記されました。

いのちは一生で途切れるものではなく、始まりも終わりも見通せないほど大きな流れの中にある、ということでしょう。

そして一行阿闍梨の偈には、「去去として原初に入る」「三界は客舎の如し、一心は是れ本居なり」とあります。

人は消えてなくなるのではなく、本来のいのちの根源へ還っていく。この世は仮のやどりであり、心こそがもとの住まいなのだと。

その人が生きて育てた安らかさや清らかさは、還っていく先の世界に、静かに溶け込んでいくのです。

密教は、一つひとつの存在が、帝釈天の宮殿の網につけられた宝珠のように、互いを映し合っていると説きます(「重重帝網なるを即身と名づく」)。

一人の生が終わることは、世界から消えることではありません。大きないのちの営みの中へ、帰っていくことです。生も死も、その同じ営みの、別々の姿にすぎません。

ですから、不治の病の床にある方も、どうか恐れないでください。あなたが今日まで生きて育ててこられたもの、周りの人に向けた優しさ、苦しみの中でなお保っておられる静けさ、それは、何ひとつ失われません。安らかな質は安らかな世界へ、清らかな質は清らかな世界へ、ほどけるように映り込み、広がっていきます。

去去として、原初に入る。ここまで歩いてこられたいのちが、もとの住まいへ帰っていく。それは終わりではなく、長い旅を終えて、懐かしい場所へ戻る安らぎです。そこには、どうしても喜びに近いものがあるのだと、私は確信しています。

今、苦しみの中にあるそのままのあなたを、大きないのちは、すでに抱いています。

そしてその徳は、家族や周囲の人々の中にも、静かに受け継がれていきます。

密教では、すべての生命は大日如来の智慧と慈悲のあらわれであると説きます。ならば、老いた姿もまた仏の姿の一つです。皺の刻まれた手、ゆっくりとした歩み、静かな声。そこには、長い人生を生き抜いた人にしか宿らない尊さがあります。

高齢化社会に必要なのは、老人を「支えられる側」とだけ見る発想ではありません。人生の後半にこそ現れる智慧や徳を、社会全体が学びなおすことです。そして、できなくなっていく悲しさや孤独に、周りの人が黙って寄り添うこと。その寄り添いもまた、仏の慈悲のはたらきにほかなりません。

老いは、衰えではありません。

人間が、もともとの仏の姿へと帰っていく過程なのです。

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