施餓鬼供養和讃
帰命頂礼釈迦如来 阿難尊者のおん慈悲に
こたえて説かる施餓鬼法 この世はみたまかずかずの
いまだに迷う業の世や
救いの道はただひとつ 心施物施の布施の行
南無や大悲の観世音 十方諸佛十方法
十方僧に供養せん
神咒お加持の功徳力 この土を清くやすらかに
慳む心を捨てさりて 発菩提心この世界
全てのねがい叶うなり
南無や五如来その利益 むさぼるこころ除かれて
福徳智慧を円満し 身心共に晴れやかに
受ける施食も恐れなし
有縁無縁のへだてなく その悦びのしあわせは
行う人の身にやどり わざわいの雲打ち拂い
世々長寿受くるらん
天下法界同利益
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「この世はみたまかずかずの いまだに迷う業の世や」
和讃のことばは、わたしたちの現実を鋭く映し出しています。
人は皆、無数の魂のいとなみの中で生きています。先祖も、他者も、縁あるものも縁なきものも、そのすべてが網の目のように結び合い、この世を支えています。
しかし同時に、その網の目はしばしば欲望に曇り、迷いに覆われ、苦しみの渦を生んでしまいます。だからこそ「救いの道はただひとつ 心施物施の布施の行」と示されます。
財を施すことも尊い。しかしそれ以上に、心を施すこと、思いやりを施すことこそ、世界を清める礎となるのです。
祈りとは、与えること。
自分を超えて、他者へと心を差し向けること。
その一瞬に、わたしたちの魂は解き放たれ、自由になります。
「慳む心を捨てさりて 発菩提心この世界」
惜しむ心を離れ、ただ仏道を志すとき、わたしたちの世界は清く、安らかになります。
その姿はまるで、暗雲を突き破って光が差し込む朝の大地のよう。
「全てのねがい叶うなり」と和讃が結ぶのは、ただの願望成就ではなく、清らかな心において自然と調えられる「真実の充足」のことを語っているのでしょう。
そして施餓鬼の功徳は、縁ある御霊にとどまりません。
「有縁無縁のへだてなく その悦びのしあわせは…」
誰かを供養する祈りは、そのまま自らの心を潤します。祈る者と祈られる者とが、やがてひとつの光の流れとなる。
与えることは、受けとること。
祈ることは、祈られること。
供養は、すべての魂を結び直す循環である。
施餓鬼法会は、単なる年中行事ではありません。
それは「わたしたちの心をひらき、他者と共に生きる智慧を養う大いなる行」です。
和讃に込められた声を胸に、今日もまた祈りの火を絶やさぬよう、魂を澄ませて歩んでまいりましょう。
天下法界同利益
すべての世界が同じく利益をいただけますように。
その祈りが、わたしたちの暮らしのすみずみにまで光を届けますように。