いのちに 驚きて 覚(さ)めるとき 仏 すでに ここに在(ましま)す

■玉泉寺 今月の掲示板■

「いのちに 驚きて 覚(さ)めるとき 仏 すでに ここに在(ましま)す」


日常は、あたりまえの顔をして通りすぎていきます。

けれども、ふと立ち止まり、風にそよぐ草や、祈る手のぬくもりに心が動いたとき、

そこに仏がふれてくださる「驚覚」の瞬間があります。


仏は遠くにおられるのではなく、すでに私の心にまします。  

仏は私の心と響き合い、その深みにまします。  

仏は私を包み、より広く深い世界にまします。

密教の修行にも、仏を驚かせてこちらに向かっていただく瞑想があるほど、

仏と私とは一体で、生々しく交わっているのです。


私の心のようで、ひとつのようで無数のようで、

私とも仏ともつかぬエネルギーが明滅し、ぐつぐつとろとろと煮えたぎる。

そのただ中で、不意に「うわっ」と驚くような、

世界が新たに立ち現れるような目覚めが訪れます。


宗教学者の言葉を借りれば、宗教体験は「驚きに始まる」といいます。

まさにその「驚き」こそが、仏と私とをひとつに結ぶ目覚めの扉です。  

そしてその扉は、いつでも私たちの日常のただ中にひらかれているのです。



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