ほんとうの人間とは
毛虫が蝶へと姿を変えるように、私たちのいのちも絶えず移り変わっています。毛虫は地を這い、葉の上で暮らすしかないように見えますが、その小さな体の中にはすでに、自由に羽ばたく蝶となる可能性が宿されています。同じように、私たちも今の姿や境遇のままで終わる存在ではなく、未来へと開かれた可能性を抱いています。
この変化は、単に体の形が変わるということではありません。心と体は二つに分けられるものではなく、ひとつのいのちとして響き合っています。その全体の営みの中でこそ、新たな可能性は育まれていくのです。ですから今の自分を「不完全」や「醜い」と否定する必要はありません。その姿もまた大切なひとときのありようであり、そこを通してこそ次の姿へとつながっていくからです。やがて羽ばたく時を迎えれば、私たちは心と体をひとつにして、本来備わっている自由さや美しさを感じ取るでしょう。そのとき振り返れば、かつての姿もまた尊い過程であったと気づくはずです。
この「変容」のたとえをさらに深めてくれるのが、空海の『吽字義』に記された言葉です。
「水外に波なし 心内即ち境なり 草木に仏なくんば 波にすなわち湿なけん」
水があるからこそ波が立つように、私たちの心があるからこそ、この世界は「境=対象」として立ち現れます。外にあるものをそのまま見ているようでいて、実は私たちの心が、それを「意味あるもの」として映し出しているのです。
さらに空海は続けます。もし草木に仏の性質がなければ、それは「波に湿り気がない」ようなものだ、と。つまり木々や草花、大地や山川といった自然の一つひとつにも、仏のいのちが満ちている。仏はどこか遠くにあるのではなく、私たちの暮らしを包む自然そのものに働いているのだと説いています。
この教えを重ね合わせると、私たちの変化や成長もまた「孤立した個人の営み」ではなく、「心と世界がひとつに響き合ういのちの流れ」の中で生じていることが見えてきます。毛虫が蝶へと変わるのも、ただその個体だけの力ではありません。陽の光や吹きわたる風、葉を茂らせる草木、大地や空気といった自然の力に支えられてこそ、成就していくのです。人間もまた同じであり、心と体をひとつに生きる私たちは、同時に自然と共に生き、仏性のはたらきの中で変容していきます。
そう思えば、日々の喜びや悲しみ、怒りや不安といった感情も、すべては水面に立つ波のようなものです。水という基盤があるからこそ波が立ち上がり、また静まっていく。心があって世界があり、世界があるからこそ心が働く――その循環の中で、私たちは常に生かされているのです。
境内の木々や、手を合わせるときに差し込む朝の光。その一つひとつに仏のいのちを見出すことができれば、日常の営みもまた仏と共にある歩みとなるでしょう。そしてやがて羽ばたくその時を迎えたとき、私たちは気づくのです。自らの歩みは常に自然と響き合い、仏のいのちと共にあったのだと。