空とは、失うことではなく、すべてになること ―弘法大師の言葉から
空とは、失うことではなく、すべてになること ―弘法大師の言葉から
弘法大師空海の『秘蔵宝鑰』に、こんな一節があります。
大虚寥廓として、万象を一気に含み、巨壑泓澄として、千品を一水に孕む。 誠に知んぬ、一は百千が母たり、空は即ち仮有の根なり。
広く静まりかえった大空は、ひとつづきの気の中に、ありとあらゆるものの姿を包み込んでいる。深く澄みわたった大海は、ひとつづきの水の中に、数えきれないいのちを宿している。だからこそ分かる。「ひとつであること」が、無数のものを生み出す母なのだ。「空であること」こそが、この世界のあらゆるものを成り立たせている根っこなのだ、と。
「空」は、何もないことではない
この一節を手がかりに、空海が「空」をどう見ていたのかを考えてみましょう。
仏教で「空」というと、多くの人は「何もないこと」「すべてが無に帰すこと」を思い浮かべるかもしれません。実際、仏教の歩みには、この世界に永遠不変の実体はないと見きわめ、ものへのとらわれを手放していく大切な段階があります。空海もその空観を深く尊びました。
そのうえで空海は、空をさらに広く、生き生きとしたものとして捉えました。『金勝王経伽陀』には「空空大空は即ち大覚なり」という言葉があります。空を突き抜けた果てに開かれるのは、何もない世界ではなく、仏の悟り、大日如来の智慧そのものだというのです。物と心、理(ことわり)と智(はたらき)――対立して見えるものが、実は分かちがたく溶け合っている。その分けることのできない働きを、大日如来の智慧、法界のはたらきと呼び、また「空」と呼ぶのです。
つまり「空」とは、欠けていることの名前ではなく、すべてを生かしているいのちの働きそのものの名前です。大空が何もない場所だからこそ雲も鳥も光も受け入れられるように、大海が澄みきっているからこそ無数のいのちを宿せるように、「空」は欠如ではなく、あらゆるものを生み出し、生かし続けている根源なのです。
あなたの日々も、その働きの一部として
この見方に立つとき、私たちの毎日の暮らしは、遠い彼方の仏の世界と切り離されたものではなく、その大いなるいのちの働きが、いまこの瞬間に姿を現している場だということになります。特別な悟りを得て初めてつながるのではなく、すでにこの身のままで、その働きの中に生かされているのです。
もし今、自分の心が空っぽに感じられたとしても、それは何かが欠けている証拠ではありません。大空や大海がそうであるように、静かに澄みきっていくことのなかにこそ、もっとも豊かないのちの働きが宿っています。
そして、その働きに気づき、手を合わせ、日々の言葉や行いに映していくこと――それが、空海の説く祈りであり、修行のかたちです。
どうか、そのままで。あなたの今日という一日もまた、すべてを包み込む大いなるいのちの、かけがえのない働きの一つなのですから。