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想念は形を変える力があります

 「祈り」とか「阿字観」とか云うものは、「想念」の集中した弾丸を宇宙の「想念の大海」に投げ込むようなものなのです。 「物質宇宙」の反面は「想念の宇宙」であり、「物質宇宙」の形相は「想念」の相(すがた)が設計図となって定められるものですから、想念が変化したら「物質宇宙」の形相も変って来るのです。 その想念の相に一大影響を与えるのが祈りですから「祈り」(又は阿字観)ほど強力なものはないのであります。 今迄、多くの世界改造を志す人たちは形の方から世界を改造しようと思ったから失敗したのです。 言論を掌握して、言葉の力で心を動かし、世界改造をするならばもっと容易に世界の様相を変化することが出来るのです。 その実証は戦後アメリカが日本の放送局とジャーナリズムの支配権を握り、所謂「民主主義」と云う「想念」を日本国民に吹き込んだとき、どんなに日本の様相が変ったかであきらかです。

吾れ動けば天地応う

 もし一個の石を海中に投げ込みますと、その石の大きさだけ海の水を押しのけます。 それは極少しの分量ですが、押しのけられた分量だけ五大洋の海水にある波動を与えるので、決してそれが何らの影響をも与えないと云うことはありません。 それと同じく、あなたのあらゆる行動・想念・言葉は宇宙全体に何等かの影響を与えざるを得ないのです。 まさに「吾動けば天地動き、吾れ祈れば天地応う」です。 物質の動きでさえもそうですが、心の動きは微妙に宇宙のあらゆる物に影響を与えていて、あらゆる所の凡ゆる量子の姿をかえつつあり、人間相互の関係がかわります。 その結果あらゆる事件が変るのです。運命が変るのです。

自分の心の調子を整えましょうー好意と心の法則ー

 ――風は見えぬが心の中に吹く。 水は静かに流れ、波紋は広がる。 善き波長に心を向ける者に、世界はそっと応える―― 私たちはなぜ、ある人々に自然と好意を抱き、また別の人々にはそう感じないのでしょうか。 また、ある人々は私たちに好意を示し、また別の人々は示さないことがあります。 必ずしも法則通りになるとは限りません。 しかし、「類は友を呼ぶ」という心の原理に沿う生き方を志すことこそ、結局は大切なのです。 もし、あなたが心を広く、あらゆる人々に好意を抱くよう努力するなら、たとえすぐに目に見える反応がなくとも、やがてあなたの周囲には自然と温かい関わりが集まってくるでしょう。 心の波長は、確かに人や出来事に微かに影響を及ぼすのです。 また、ある人が不慮の出来事に巻き込まれ、災難を受ける一方で、同じ場所にいても他の人はそれを避けられることがあります。 その差もまた、心の波長や雰囲気が出来事を近づけたり遠ざけたりするからかもしれません。 結局のところ、環境も境遇も完全に自分の思いどおりにはなりません。 それでも、自らの心を整え、善き波長に向けて努力することが、最も確かな道であるのです。 ――心を温かく、力強く、柔軟に整えよ。 道は常に予測どおりではないが、あなたの心の向かう先こそ、やがて世界を和らげ、幸福への道しるべとなる――

人生に失敗する原因は

 人は時折、寂しさにおそわれます。 天涯孤独のように、身も心も頼るところがなく、深い淋しさに打ちひしがれることがあります。 しかしそれは偶然ではありません。 自らの心が、大生命である大日如来の「生かす法則」から外れている時に生まれる感情なのです。 もし私たちが、ラジオのダイヤルを廻して波長を合わせるように、大生命放送局の「生かす波長」に自らの心を同調させるなら、 新たな調和が心に訪れ、寂しさは静かに消え去っていくのです。 ――人生は長いトンネルを進む旅のよう。 行く先の光を見据え、真直に歩むことが求められる。―― もし目を閉じ、光を見ずに進めば、 必ずトンネルの側壁にぶつかり、痛みを伴うでしょう。 これが人生における、さまざまな失敗や失意の原因なのです。 ――光に心を向けよ。 波長を合わせよ。 そうすれば、孤独の霧は晴れ、道は自然と照らされる。――

幸福の国を見るには

 イエスは言われました。 「人あらたに生れずば、神の国を見ること能わず」と。 人が「神の国」、すなわち幸福の国に入るためには、新たに生まれることが必要なのです。 ここでいう「新たに生まれる」とは、肉体が母の胎内に入って再び生まれ変わることではありません。 それは、自分自身を内的に変化させ、魂の根っこから生まれ変わることを指します。 すなわち、自我の想念が完全に新しくなること。 考え方がすっかり新たになり、心のあり方が刷新されることです。 密教ではこれを「出生」といい、自心の中で新たに菩薩が生まれ出ることを表しています。 肉体という皮袋が新しくなっても、心の想いが新しくならなければ、幸福な生活を送ることはできません。 わたしたちが不幸を感じたり、淋しくやるせなく感じたりするのは、自分自身が神仏の波長から勝手に外れている証拠です。 言わば、迷い児となっているに過ぎないのです。

世界は自分の心の鏡です

外界は心の映し絵 世界は、まるで自分の周囲に立て廻した鏡のようなものです。 自らの「心」を映して、その姿を外界だと思う。 もしその映像が不幸に見えれば、悲しむのです。 ――鏡の中に映るのは、他ならぬ己自身。 心の小径を歩き、静かにその影を見つめよ。―― 脚下照顧の智慧 少し内省してみると、自分の周囲には、自分の心の結果ばかりが現れていることに気づきます。 「周囲を善くしようと思うならば、先ず脚下照顧(自分の足元をよく見ること)せよ」と言われるのは、このゆえです。 ――足元の小石をひとつ見つめるように、 まず自らの心をひとつずつ整えよ。―― 心の性質を知る 自分に欠点はないはずなのに、不幸に陥ったと考える人がいます。 しかし、それは誤りです。 損をする者には必ず欲張る心があり、 人から過剰に冷遇される者には利己的な心があります。 人から非難される者には、自らに寛大さがなく、短気で、他を責める性格があるのです。 ――風に揺れる木の葉のように、 まず他を生かすことに心を傾けよ。―― 他を生かすことが自らを開く そんなときは、先ず人を生かすことに比重を置いてみましょう。 自分の心が変わると、世界もまた変わり、人生の道がひらけてくるのです。 ――他に光を与えれば、 己の道も光に満ちる。――

まず自分の心を整える

 外界と内界―― この二つは切り離されたものではなく、深く結びついています。 多くの人は言います。 「すべてのものは物質が先にある」と。 その考えでは、人間の内界――心の世界――は外界の影響に左右され、外界を変えなければ幸福にはなれないというのです。 しかし、よく考えてみましょう。 外界をいかなる状態に整えるかを決めるのは、心そのものなのです。 心が調わぬ者が、いくら計画を立て、形ある世界を改革しても、そこに真の幸福は訪れません。 改造計画そのものも、また心から生まれるもの。 だからこそ、心が先であり、外界はその結果であると言わざるをえないのです。 先ず人は、幸福になろうと思うならば、自らの心から歩み始めなければなりません。 多くの人々は、自分の心の不完全を見過ごし、環境ばかりに不平をこぼします。 そのため、望む結果はなかなか得られません。 心の庭を整えよ、 そこに花が咲き、雨が降り、風が吹く。 外の世界はその鏡、 静かに、しかし確かに、内なる光が外界を映す。 今日もひととき、心の小径を歩もう。 足元の小石に気づき、呼吸を調え、想いを正しく導くとき、 世界はやさしく、わたしに微笑みかけるだろう。

仏の国・密厳浄土を地上に実現するには

 「祈り」や「阿字観」と呼ばれる修行は、己の意識の王国における人民――すなわち想念――を一定の目的の方向へ集中的に動員する行為です。 この動員は、内部に眠る仏性を揺り動かし、内なる「仏の国」、すなわち密厳浄土を現実化する力を生み出します。 いくら意識の国の人民が多くとも、それぞれが別々の方向に動いていては、現実的な力は何ひとつ生まれません。 内にある力を宇宙に満ちる力と調和させるためには、一定の時間を定め、自らの心の方向を仏の方へ向けることが肝要です。 そのとき、仏の慈悲の波長、生命の波長、智慧の波長、豊かさの波長、平和と調和の波長に心を合わせることができます。 さらに、多勢が集って共に祈ると、信仰の力による感情の共鳴が起こり、如来の波長と一致しやすくなります。 そのとき、密厳浄土の実現に向けた力が、より強く、現実に現れ出るのです。

幸福度の高い国を実現するには ー内なる神の国ー

 昔の聖人は言われました。 「神の国は汝の内にあり」と。 ここでいう「汝の内にある神の国」とは、すなわち己が内に息づく魂の国のこと。 その主権を握る者こそ、内在の神の子、または内在の仏性であります。 魂の国の人民とは、私たちの想念(心の思い)、言葉、そして行い――すなわち仏教における身・口・意の三密に他なりません。 幸福を求める者は、まずこの人民を正しく導かなければなりません。 善き事を思わしめ、善き言葉を語らしめ、悪しき習慣を断じて捨てしめる。 そのとき、魂の国は清められ、内なる神の国は光を帯びるのです。 例えば健康を願うなら、健康であることを想い、健康を語り、健康者の如く行ずる。 思い、言葉、行いの三つがひとつとなり、魂の国はやすらぎに満たされるでしょう。 内なる神の国は、あなたの掌の中にあります。 今日もまた、己の三密を整え、魂の国を治め、内なる光を育んでまいりましょう。