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9月, 2025の投稿を表示しています

月に刻まれた記憶

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月あかり 祖先も仰ぐ 秋の夜 夜空に浮かぶ月を見上げるとき、私たちの心には、説明しがたい懐かしさや静けさが響いてきます。これは単なる個人的な感覚ではなく、人類に共通する深層の記憶が呼び覚まされているのかもしれません。 ユング心理学では、人間の意識の奥底には「集合的無意識」が存在し、そこに太古からの象徴やイメージが刻まれていると説かれます。月はその代表的な元型の一つであり、生命のリズム、循環、再生の象徴として、文化や宗教を超えて人々の心に作用してきました。 共に見る 満月ひとつ 世を越えて 神経科学の観点からも、月の満ち欠けは人類の生存に直結するリズムとして長い間作用してきました。潮の干満や狩猟・農耕の営みは月の周期と深く結びついており、その体験が世代を超えて「身体化された記憶」として残っていると考えられます。いわば、私たちの固体そのものに月のリズムが刻まれているのです。 澄む月に 心の記憶 呼び覚まし また文化人類学者たちは、古代文明から現代に至るまで、月は必ず神話や祭祀の中心に位置づけられてきたことを指摘します。エジプトではトト神、ギリシアではアルテミス、日本では月読命。民族や地域が異なっても、月に神性を見いだす想像力は普遍的に共有されているのです。 円かなる 月を観じて 闇ひらく 真言密教においても「月輪觀」という瞑想法があります。心に満月の姿を観じ、その円相に仏性の清浄さを映し出す実践です。ここにおいて月は単なる天体ではなく、智慧と慈悲の光を象徴する鏡となります。外なる月を見上げつつ、内なる月を観じるとき、人は自己を超えた安らぎに触れることができます。 秋の夜、澄んだ空に浮かぶ満月を見つめるとき、私たちは孤独ではありません。祖先も、古代の詩人も、未来の人々も、同じ月を仰ぎ見ています。 秋の月 内にもひとつ 光満つ 月はつねにひとつでありながら、すべての人の心に宿る。そこに「固体に刻まれた共通の記憶」と「魂の普遍的なつながり」が重なり合い、私たちを静かに包んでいるのです。

あなたが仏であるという真実

羝羊自性なきが故に善に遷り愚童内薫力の故に苦を厭う(十住心論第三) 本能に振り回される者も、やがては善を求め、愚かさの中にある心も、苦を解決しようと願うものです。 仏と我と無二無別なり 乃至一切衆生の各別の身中の本来自性清浄の理も世間出世間に於て最勝最尊なり(秘蔵記) 仏と私たちは本来一つであり、何の隔てもありません。すべての衆生の身の内には、もともと清浄なる真実が宿っています。この理法こそ、世の中で最も尊く優れた教えであると説かれています。 人間には「毛虫」のような面と、「蝶」のような面とがあります。毛虫は地を這い、葉を食べ、もがきながら生きています。その姿は一見、卑小で醜く見えるかもしれません。しかし、毛虫の営みこそが、やがて蝶へと羽化するための必要な道のりです。貪り、怒り、愚かさといった人間の煩悩もまた、無意味なものではありません。煩悩があるからこそ、それを昇華し、仏性を顕す契機となるのです。 真言密教はこれを「煩悩即菩提」と説きます。毛虫が自らの姿を否定することなく、そのまま蝶へと変わっていくように、人間もまた煩悩を抱えたまま、その煩悩を土壌として仏性を咲かせていくのです。 毛虫の歩みを見ていると、私たちもまた同じく、未熟さのただ中に仏の可能性を宿していることに気づかされます。毛虫の生は蝶の生を含み、煩悩はそのまま菩提へと通じているのです。

ほんとうの人間とは

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 毛虫が蝶へと姿を変えるように、私たちのいのちも絶えず移り変わっています。毛虫は地を這い、葉の上で暮らすしかないように見えますが、その小さな体の中にはすでに、自由に羽ばたく蝶となる可能性が宿されています。同じように、私たちも今の姿や境遇のままで終わる存在ではなく、未来へと開かれた可能性を抱いています。  この変化は、単に体の形が変わるということではありません。心と体は二つに分けられるものではなく、ひとつのいのちとして響き合っています。その全体の営みの中でこそ、新たな可能性は育まれていくのです。ですから今の自分を「不完全」や「醜い」と否定する必要はありません。その姿もまた大切なひとときのありようであり、そこを通してこそ次の姿へとつながっていくからです。やがて羽ばたく時を迎えれば、私たちは心と体をひとつにして、本来備わっている自由さや美しさを感じ取るでしょう。そのとき振り返れば、かつての姿もまた尊い過程であったと気づくはずです。  この「変容」のたとえをさらに深めてくれるのが、空海の『吽字義』に記された言葉です。 「水外に波なし 心内即ち境なり 草木に仏なくんば 波にすなわち湿なけん」 水があるからこそ波が立つように、私たちの心があるからこそ、この世界は「境=対象」として立ち現れます。外にあるものをそのまま見ているようでいて、実は私たちの心が、それを「意味あるもの」として映し出しているのです。  さらに空海は続けます。もし草木に仏の性質がなければ、それは「波に湿り気がない」ようなものだ、と。つまり木々や草花、大地や山川といった自然の一つひとつにも、仏のいのちが満ちている。仏はどこか遠くにあるのではなく、私たちの暮らしを包む自然そのものに働いているのだと説いています。  この教えを重ね合わせると、私たちの変化や成長もまた「孤立した個人の営み」ではなく、「心と世界がひとつに響き合ういのちの流れ」の中で生じていることが見えてきます。毛虫が蝶へと変わるのも、ただその個体だけの力ではありません。陽の光や吹きわたる風、葉を茂らせる草木、大地や空気といった自然の力に支えられてこそ、成就していくのです。人間もまた同じであり、心と体をひとつに生きる私たちは、同時に自然と共に生き、仏性のはたらきの中で変容していきます。  そう思えば、日々の喜びや悲しみ、怒りや不安といった感情も、すべては水...

祈願を胸に歩むということ

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 ときおり、「このままで本当に良いのだろうか」と、ふと立ち止まりたくなる瞬間があります。思うように進まない日々や、先の見えない現実に直面すると、不安や迷いが心を曇らせてしまいます。そんなとき、人の心はつい足元ばかりを見つめがちになるものです。 けれど、そういうときこそ「祈願」の心を持つことが大切です。 いま与えられている場所や状況は、決して行き止まりではありません。むしろ、それはやがて訪れる変化や成長への途中であり、必要な通過点なのです。だからこそ、「この一日を大切に生きよう」「祈りの心を忘れずにいよう」と思い起こすことが大切です。 たとえ目に見える変化がなくても、静かなところで確かに物事は動いています。人の心もまた、祈願を重ねる中で少しずつ次の一歩を生み出す準備を整えていきます。大切なのは、その過程を軽んじず、いまという瞬間を誠実に生きること。そして、必ず祈りが届くと信じて、願いに向かって歩みを続けることです。 祈願とは、単なる願掛けではありません。 それは、自分がどうありたいか、どこに向かいたいのかを仏の前で静かに見つめ直し、その願いを言葉にして託す行為です。そしてその祈りは、時に目に見えぬ形で、私たちの内側を少しずつ照らし、やがて現実の道を開いてくれます。 祈りを重ねる日々そのものが、すでに願いへと近づく道なのです。

小仏像に託された願い

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このたび、境内の草むしりや清掃に三年にわたり足を運んでくださった方より、可愛らしくも気品ある小仏像をご寄進いただきました。 添えてくださったお手紙には、ご自身と奥様が後期高齢に至られる中で、子や孫の世代には仏教や供養への関心が薄れつつある現実への思いが綴られておりました。せっかくの仏像が、やがて粗末に扱われるのではないか——。その憂いを胸に、長らく境内の清掃を奉仕として続けてくださったご縁を頼りに、「玉泉寺にすべてを託すことで、曇り空が晴れて青空のように心安らぐ」と記しておられました。 仏像は単なる美術品でも飾り物でもなく、そこに込められた祈りと願いが、未来へとつながっていくものです。お手紙の一文には、「私たちの後も、この小仏像を大切に護り続けてほしい」という切なる願いがにじんでおりました。 草むしりという日々の小さな営みの積み重ねから、ご縁が生まれ、やがて仏像寄進という大きな実を結ぶ——。この出来事は、仏さまが人と人を結び合わせ、人生の不安を光へと変えてくださることを示しているように思われます。 いただいた小仏像は、玉泉寺にて末永くお守りし、来山される皆さまの心の拠り所となるよう祈念いたします。 合掌

とある討論番組でのやりとりから考える、心の豊かさ

先日、何気なく見ていた討論番組で、心に引っかかるやりとりがありました。テーマは「心の豊かさとは何か」。ある出演者が言ったのです。「生活苦の人に、心の豊かさを求めるのは酷だ」と。さらに論語の一節を引き、「衣食が足りてこそ、礼節や心の余裕も生まれる」と述べました。 なるほど、その通りかもしれません。生活の基盤が整わなければ、心の余裕や高尚な徳を語るのは難しい、という伝統的な考え方です。しかし、画面の向こうで、私は小さな違和感を覚えました。心の豊かさは、経済的な条件や生活環境の充足にだけ依存するものではないのです。 私は思います。心の豊かさとは、リッチであろうと、生活に困窮していようと、健康であろうと、病床にあろうと、臨終の床にあろうと、その人の魂のあり方によって育まれるものです。たとえば、狭いアパートの片隅で、必死に仕事と子育てをこなす母親が、一日の終わりに子どもの笑顔を見て心を和ませる瞬間。あるいは、病室で痛みに耐えながら、窓の外の光に目をやり「今日も生きられた」とつぶやく高齢者。その小さな瞬間こそ、豊かさの芽生えです。日々の小さな気づきや、他者への思いやり、感謝の心が、心を豊かにします。生活苦の中でも、人は豊かになれるのです。 仏教や禅の教えも、この考え方を支えます。禅では「境遇ではなく、心の置き方こそが修行であり、悟りである」と説きます。密教では、物質や環境を単なる条件としてではなく、仏の意志の表れととらえ、自らの心の向き方で意味を立ち上げることが重視されます。逆に、衣食が整っても心を乱し、他者を顧みないとき、豊かさは遠のきます。 討論番組のやりとりを見ながら、私はこう思いました。心の豊かさは、誰にでも、どんな環境にあっても、育てられるものだと。生活の重さに押しつぶされそうな日々でも、一瞬一瞬の意識の向け方が、私たちの魂を豊かにしてくれます。衣食の充足は確かに大切です。しかしそれ以上に、物事に心を置き、目の前の一瞬を感じる力こそが、豊かさの源泉なのです。 今日も、どんな小さな瞬間であっても、心を開き、目の前の世界に向き合う。すると、生活の中にささやかな光が差し込み、心は静かに豊かになっていきます。心の豊かさは、条件ではなく、態度であり、生きる一瞬一瞬の選択の積み重ねなのだと、改めて思うのです。

いのちに 驚きて 覚(さ)めるとき 仏 すでに ここに在(ましま)す

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■玉泉寺 今月の掲示板■ 「いのちに 驚きて 覚(さ)めるとき 仏 すでに ここに在(ましま)す」 日常は、あたりまえの顔をして通りすぎていきます。 けれども、ふと立ち止まり、風にそよぐ草や、祈る手のぬくもりに心が動いたとき、 そこに仏がふれてくださる「驚覚」の瞬間があります。 仏は遠くにおられるのではなく、すでに私の心にまします。   仏は私の心と響き合い、その深みにまします。   仏は私を包み、より広く深い世界にまします。 密教の修行にも、仏を驚かせてこちらに向かっていただく瞑想があるほど、 仏と私とは一体で、生々しく交わっているのです。 私の心のようで、ひとつのようで無数のようで、 私とも仏ともつかぬエネルギーが明滅し、ぐつぐつとろとろと煮えたぎる。 そのただ中で、不意に「うわっ」と驚くような、 世界が新たに立ち現れるような目覚めが訪れます。 宗教学者の言葉を借りれば、宗教体験は「驚きに始まる」といいます。 まさにその「驚き」こそが、仏と私とをひとつに結ぶ目覚めの扉です。   そしてその扉は、いつでも私たちの日常のただ中にひらかれているのです。

曼荼羅と心の安らぎ

真言宗では、曼荼羅を大切にしています。曼荼羅とは、仏さまの世界や宇宙の姿を象徴的に表した図で、見るだけでも心を整え、仏さまの智慧に触れることができます。 玉泉寺の本堂にも、必ず金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅の二つが掲げられています。金剛界曼荼羅は大日如来の智慧を中心に据え、揺るぎない原理や基盤を示します。胎蔵曼荼羅は大日如来の慈悲を象徴し、無数の仏菩薩が広がる世界を描いています。この二つの曼荼羅は、真言宗の教えの中心である「縁起と基体」の両方を示すものとして、私たちの信仰の拠り所となっています。 仏教では、世界や心を二つの視点から見ることができます。ひとつは「縁起」、すべてのものは互いにつながり合い、支え合うことで存在しているという考え方です。もうひとつは「基体」、そのつながりの奥に揺るがない智慧や真理があるという考え方です。 胎蔵曼荼羅は、花が咲き広がるように、無数の仏さまや菩薩が広がる世界を描き、縁起の世界を表しています。私たちが互いに支え合い、助け合うことは、この曼荼羅の世界と心を通わせることにほかなりません。日々のご縁を大切にすることが、私たち自身の心を育むのです。 一方、金剛界曼荼羅は、花の根っこのように大地にしっかり根を下ろす大日如来の智慧を描いています。これは揺るがない基体であり、人生の中で困難や迷いに直面しても、心の支えとなる原理を示しています。 真言密教では、この二つの曼荼羅をあわせて理解します。「縁起」によって互いのつながりを見つめ、「基体」によってその奥にある絶対的な智慧に支えられる。胎蔵と金剛、この二つの世界を行き来することで、私たちは心の安らぎと生きる力を得るのです。 玉泉寺でお祈りをするとき、目の前の曼荼羅を通して、私たちのつながりと、その奥にある智慧を感じてみてください。曼荼羅の世界に心を合わせることで、日常の一瞬一瞬が豊かさと気づきに満ちてきます。